明治時代にコレラの感染拡大を、自分の命を捨てて村人を守った25歳の青年、増田敬太郎巡査ありがとう。bayfm78「6時からドットコム」ラジオ放送で.

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今日は良い話を聞きました。

 

 

 

増田敬太郎巡査のことです。

 

 

 

8月9日(日)bayfm78「6時からドットコム」ラジオ放送で聞いたのです。

 

 

 

かに
かに

番組の中での人物伝はとてもためになります。

 

 

 

DJの小林克也さんの『人物伝』の語りです。

 

 

 

ポッポさん
ポッポさん

DJ小林克也さんの話方が聴きやすいんです。最高に上手な語りです。

 

 

 

増田敬太郎(ますだけいたろう)巡査は、

 

 

 

明治2(1869)年8月、泗水村(現・泗水町)に生まれた25歳の青年でした。

 

 

 

ちょきちょきさん
ちょきちょきさん

素晴らしい警察官ですね。青年としても大変立派です。👍👍👍👍

 

 

それは今から125年前、

 

 

 

旧佐賀県東松浦郡入野村高串地区(現・唐津市肥前町高串地区)を襲った伝染病「コレラ」。

 

 

 

防疫や患者の遺体搬送などに不眠不休で取り組んだ警察官の活躍により、

 

 

 

命を救われた人々は、その偉業を親から子、孫へと代々語り継ぎ、

 

 

 

今でも感謝の気持ちを持ち続けています。

 

 

 

死に際に彼が言った遺言がすごい。「この村のコレラは私が全部背負っていきますから。」

 

 

熊本県菊池市 広報きくち 令和2年7月号から引用

2020.07.01 熊本県菊池市
■神様になった警察官
新型コロナウイルス感染症の感染が拡大する中、ある一人の警察官の活躍が再び注目を集めています。今から125年前、旧佐賀県東松浦郡入野村高串地区(現・唐津市肥前町高串地区)を襲った伝染病「コレラ」。
防疫や患者の遺体搬送などに不眠不休で取り組んだ警察官の活躍により、命を救われた人々は、その偉業を親から子、孫へと代々語り継ぎ、今でも感謝の気持ちを持ち続けています。
警察官の名は、増田敬太郎(ますだけいたろう)。明治2(1869)年8月、泗水村(現・泗水町)に生まれた25歳の青年でした。

■コロナ禍で脚光明治のコレラ対応に尽力
幼い頃から進んで皆のために役に立つことを考え、行動に移してきた増田敬太郎。世の中のため、人のためになる仕事をしたいと熱望し、25歳のとき佐賀県警察学校へ入学しました。

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◆伝染病予防の適任者として任命
明治28(1895)年7月。増田さんは、佐賀県警察学校へ入学。約3カ月を要する教習課程をわずか10日間で習得し、優秀な成績で修了します。7月17日に巡査に任命され、19日、唐津警察署に配属されました。
当時、日本では伝染病のコレラがまん延。唐津警察署管内の高串地区も例外ではなく、応援を求めていました。
そんな時、秀才で学問への深い理解や行動力があり、伝染病に必要な衛生面の知識もある増田巡査の存在が目に留まります。警部は「これ以上の適任者はいない。どうにかこの危機を救ってくれないか」とお願いしたそうです。
人一倍正義感の強い増田巡査はすぐに任務を引き受け、唐津から交通機関も何もない山道を辿り、21日、コレラがまん延している高串地区に到着。警察官になって4日目のことでした。

◆徹底した感染予防
高串地区の人は、コレラ自体は恐れていたものの、予防の知識は乏しく、感染者の家にも行き来をしていました。
増田巡査が到着したころには、感染者40人、疑似感染者34人、死亡者9人。「一刻も早く患者と健康な人との接触を断たなければ」と対策を講じることにしました。患者の家の周りに縄を張り巡らして消毒を施し、人の行き来を禁止。決して生水を飲まない、生の魚介類を食べないようにと厳しく指導して回りました。

◆根拠のない噂
増田巡査は、患者の家を回り、薬を飲ませていました。しかし、手遅れの患者が薬を飲んで亡くなったのをきっかけに「毒薬を飲ませている」と根拠のない噂が広がります。治る見込みのある患者までもが「毒薬など飲まない」と言い出しますが、そんな状況の中でも、増田巡査は根気強く誤解を解いて回りました。
一方、「触れると感染する」と住民が遺体運搬を拒む中、増田巡査は自ら遺体を消毒。むしろで巻いて背負い、傾斜30度の坂道を何度も往復し、墓地に埋葬しました。手厚い看病や予防に全身全霊で取り組む増田巡査の姿に、人々は胸を打たれました。

◆襲いかかるコレラ
高串地区に到着して3日目。不眠不休で働いたせいか、25歳の増田巡査でも疲労には勝てず、ついに自身がコレラに感染。23日の午後、倒れてしまいました。
ますます衰弱していく中でも、看病に来た人に「絶対に私には近づかないように」と気遣いを欠かしませんでした。
「高串のコレラは私がすべて背負って行きますから、安心してください。人々には私が指導したように看病と予防を怠らずに続けるように伝えてください」と遺言を残し、24日午後3時に増田巡査は命を落としました。警察官になって7日目、高串地区に来て4日目のことでした。
村人はその悲報に驚き、悲しみました。そして翌日、高串地区の沖にある小松島で増田巡査は火葬され、唐津で警察葬が執り行われました。
その後、増田巡査の遺言どおりコレラの猛威は収まり、穏やかな日々が戻りました。

◎泗水町にある増田さんの生家前には、「増田精神顕彰会」による顕彰碑が建っている。碑石は唐津石。顕彰碑や増田敬太郎さんの墓には、今でも警察関係者らが清掃や墓参りに訪れている
◎死後、感染した子どもの父親の枕元に増田巡査が現れ、「コレラは吾が仇敵にして冥府に伴うので、安心して回復を待て、看病を怠ってはならぬ」と告げて、子どもは回復したという話が残っている。

Webから引用

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