日本人もリメンバー・パールハーバー。「真珠湾を忘れるな」の合い言葉を忘れない。

日記

12月8日は真珠湾攻撃を行った日です。

 

 

 

日本人はこの日を忘れてはいけません。

 

 

 

なぜなら、日本人の先輩たちが日本を守ろうとしたからです。

 

 

 

かに
かに

戦争を美化しているのではありません。戦争は反対です。だけど、きちんと日本の近代史を学ぶことは大事!!

 

 

 

ちょきちょきさん
ちょきちょきさん

日本人なら日本の歴史を直接学ばないで、外野から聞かされる日本人の悪行と言われるものを信じてしまうからです。😰😰😰

 

 

 

 真珠湾攻撃(しんじゅわんこうげき、英: Attack on Pearl Harbor、日本時間1941年(昭和16年)12月8日未明、ハワイ時間12月7日)は、第二次世界大戦において日本海軍が、アメリカ合衆国のハワイ準州オアフ島真珠湾にあったアメリカ海軍の太平洋艦隊と基地に対して行った、航空機および潜航艇による攻撃である。当時の日本側呼称はハワイ海戦(布哇海戦)。(Wikipedia)

 

なぜ日本はあのとき「真珠湾攻撃」を決断したのか
真珠湾事件は一般に日本の奇襲攻撃とされているが実際は反撃であり1年以上前から計画されていた。このため米国も知っており、事件の10カ月前の1941年1月27日にはグルー駐日米大使はハル国務長官に「日米交渉が決裂した場合日本海軍は総力を挙げて真珠湾を攻撃するという噂が東京外交界に流れている」と警報を送っている。この公電は現在米国ウィスコンシン大国務省外交文書図書館のHPで公開されている。落合道夫(東京近代史研究所代表)

スポンサーリンク

 

真珠湾攻撃「だまし討ち」の責任は「大使館にあり」は本当か?
リメンバー〝リメンバー・パールハーバー〟
樫山幸夫 (元産經新聞論説委員長)

 日本を破局に導いたあの日から8日で78年。すでに歴史の範疇に入ったと言うべきだろう。が、「パールハーバー」をめぐっては、なお隠されたドラマ、未解明の謎が少なくない。そのひとつは、日本側の不手際から対米通告が攻撃開始後まで遅延してしまったことだ。戦後になっても日本は「だまし討ち」の汚名を浴びせられ続け、それはいまなお払拭されたとはいいがたい。

 1941(昭和16)年、欧州の戦火が激化する中で、日本と米国は、日本の中国からの撤兵問題(日中戦争が始まっていた)や米国が反発する日独伊3国同盟などについて、この年の春から交渉を行っていた。11月下旬になって米国から強硬な最後通牒(当時の国務長官の名を取って〝ハル・ノート〟と呼ばれる)を突きつけられ、日本は戦争を決意。開戦日を12月8日(アメリカ時間7日)と決めた。

 外務省は、宣戦布告にあたる交渉打ち切り通告「対米覚書」を攻撃開始のハワイ時間7日午前8時、ワシントン時間午後1時半の30分前にハル国務長官に手渡すよう、ワシントンの大使館に指示した。ところが、前夜から送られてきた「覚書」は分割されたうえ長文に渡り、最後の一節にあたる第14部と国務長官への手交時刻を伝える指示電報が到着したのは7日午前、すでに時が迫っていた。

 解読、清書に手間取り、結局、野村吉三郎、応援派遣の来栖三郎の両大使がハル長官に面会したのは午後2時20分、真珠湾は火の海と化していた。ハル長官は「日本は野村、来栖が私に通告を渡すよりも1時間以上も前に、無警告で真珠湾を攻撃した」(『ハル回顧録』、中公文庫193ページ)と非難、「無警告攻撃」はその後も米側の宣伝材料として利用された。

コメント

タイトルとURLをコピーしました